「伝えよ」マルコによる福音書16章14-18節

 わたしたちは感謝しましょう。今日というこの新しい日が与えられ、そこを歩むことをゆるされていることに。これは主なる神の大きな恵みです。この恵みの中で、わたしたちは何をすべきなのでしょう。主なる神は仰せられます。「伝えなさい」。何を伝えるのでしょう。「福音」です。どのようにしてするのでしょう。「行って」です。このみことばは復活されたイエスが弟子たちに語られたものです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ福音書16:15)。これは昔、イエスの弟子たちが聞いたものです。しかし、今日、主なる神がわたしたちにおっしゃるのです。「伝えなさい」と。

 福音を託された弟子たちはどういう人だったのでしょう。剣や棒を持った町の人々がイエスを捕えに来たとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のです。「一人の若者が素肌に亜麻布をまとってイエスに付いて来ていた」のですが、「人々が捕えようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」のでした。(マルコ福音書14:43-52参照)弟子たちはイエスが縛られるのを見ておじ恐れて、もはや、逃げるしかなかったのでしょう。ここに弟子たちのもろさと貧弱さがさらけだされました。イエスが最高法院で裁判を受けていたとき、ペトロはイエスを知らないと言ってしまうのです。大祭司の召し使いや居合わせた人たちに「お前はあの連中の仲間だ」と言われると、ペトロは「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と「言い張って、激しく誓いはじめた」(14:71口語訳)のです。(マルコ福音書14:66-72参照)こんなこともありました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた」(ヨハネ福音書20:19)のです。戦々兢々としている弟子たちの姿が目に浮かびます。これが弟子たちです。このような弟子たちに福音を「伝えなさい」とは。それが神の為さることなのです。

 どのようにしてするのでしょう。「行って」です。口語訳では「出て行って」となっています。「出て行って、福音を伝えよ」と言われたその後の弟子たちの様子は、使徒言行録に記されています。五旬祭の日に、「あの人たちは新しい酒に酔っているのだ」と嘲ける人たちに対して声を張り上げて酔っているのではないことを話します。そして福音を語りました。(2:1-41参照)神殿の境内で足の不自由な男に福音を語ります。その人は立ち上がって歩きだし神を賛美します。(3:1-10参照)弟子たちは堂々とした態度で語り続けます。そして弟子たちと教会は妬まれ迫害されるようになります。殉教者も出、教会の人々は散らされます。散って行った人々は、行った先々で福音を語りました。(8:1-8参照)福音はユダヤ人に語られただけでなく、異邦の人たちにも語られていきます。こういうことが「出て行って伝える」ということなのではないでしょうか。見落としてならないことは、そこには主なる神の働き掛け、導きがありました。そして弟子と教会は語れる人にされました。語らせるのは聖霊です。聖霊によって弟子と教会は語る人に、いつでもどこででも語る人になりました。マルコは証言しています。「弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた。主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものにされた」(マルコ福音書16:20)。

 「伝えなさい」のことばの背後には共に働いてくださるお方がおられることを受け止めましょう。