パウロは人間を二つに分けています。人は僕で、その人が仕える主人がいると言うのです。その主人の僕となって生きているのが人間なのだと証言しています。
二つのうちの一つは「罪の僕」(ローマ6:17口語訳)です。聖書協会共同訳は「罪の奴隷」と訳しています。「自分の肢体を汚れと不法の僕としてささげ」(ローマ6:19口語訳)、「恥」じる生活をし、「その行き着くところは死です」(ローマ6:21)。「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。仕えた結果、その人に支払われる給付は、すなわち、罪の生活によって獲得するものは「死」なのです。
もう一方は「義の僕」(ローマ6:18口語訳)です。神に仕えて「聖なる者となるための実を結」(ローマ6:22)ぶのです。「その行き着くところは永遠の命です」。これは報酬ではなく「神の賜物」(ローマ6:23)です。
罪の僕から義の僕に移る道があります。それは「伝えられた教えの基準」(ローマ6:17)に聞き従うことです。「教えられた基準」を受け取って、それに服従するのです。ここに正当な、そして健全な信仰があります。これなしに罪の僕が義の僕にはなれないのです。そしてこの「教えられた基準」から外れたら、それはもう教会ではありません。この「教えられた基準」は「伝えられた」ものです。
「教えられた基準」は、パウロがこのローマの信徒に語ってきた「福音」のことです。福音は旧約聖書の約束の成就でした。そして福音はわたしたち人間の罪の赦しのためのイエス・キリストの十字架と復活の出来事でした。ですから罪を悔い改めてイエスの十字架を受け入れる、信じる者は救われるということでした。マルコは「イエス・キリストの福音」と書き始めて、イエスの宣教のことばを記しています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ福音書1:15)。パウロはコリントの信徒へ書送っています。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと・・・神の恵みによって今の私があるのです」(コリントI
15:3-10)。パウロが語り伝えた福音は教会が伝えたものでした。伝えられたものを受け取り、信じてそこに身を置いたパウロは救われたのでした。罪の僕から義の僕へと移されたのでした。だからパウロはあなたがたも受け入れたら、信じたら救われますよと勧めたのです。
「教えられた基準」のもう一つは、実際の生活をどのようにすべきかという教えです。これもイエスの教えに基づいたものです。イエスの山上の説教を見ても分かるでしょう。「イエスは口を開き、彼らに教えられた」(マタイ福音書5:1)。パウロのローマの信徒への手紙はこの「伝えられた教えの基準」に則って書かれています。1章から8章までは「福音」が語られて、12章から「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と記して、神に従い仕える生活を規定する内容になっています。