「死んで生きる」ローマの信徒への手紙7章1-6節

 人は信仰によって義(救い)とされます。神の救いの恵みに与ることができます。「私たちは信仰によって義とされた」(ローマ5:1)と証するパウロはこの手紙でそのことを語ってきました。岬教会のわたしたちも主イエス・キリストを信じる信仰によってその恵みに与りました。パウロは神がイエス・キリストによってわたしたちにしてくださったことを「結婚」の話を用いて説明しているのがこの章です。

 「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば夫の律法から解放されます。ですから・・・自由の身となり、他の男のものになっても姦淫の女とはなりません」(ローマ7:2-3)。これは結婚の話です。わたしたちの場合でも、民法の戸籍法に従って婚姻届を役所に提出することによって夫婦となります。そして、夫または妻が死亡している時は再婚することができます。「夫が死ねば、その律法から自由の身となり、他の男のものになっても姦淫の女とはなりません」(ローマ7:3)とパウロも語っています。パウロは結婚の話をしたかったのではありません。「それと同じように、きょうだいたち、あなたがたも、キリストの体によって、律法に対して死んだのです」(ローマ7:4)と記されているように、結婚を例にあげながら信仰の話をしようとしているのです。

 パウロがこのような話をする背景には、教会内にもめごとがあったからです。「モーセの慣習に従って割礼を受けなければあなたがたは救われないと説く人たちがユダヤからアンティオキアに入ってきたことがありました。パウロやバルナバと激しい対立と論争が生じました。そこで、エルサレムに集まって協議したのです。(使徒言行録15章参照)異邦人と食を共にし交わっていたペトロでも「割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行った」のです。バルナバも「彼らの見せかけの行いに引きずり込まれ」ることがあったのです。(ガラテヤ2:14-15参照)ガラテヤの教会でもこういう問題が起っています。パウロは「ああ愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか」(ガラテヤ3:1)と語りながら目を覚まして信仰によって生きるように仕向けます。

 パウロはこのローマの人たちに信仰によって人は義とされると語ってきましたが、信仰による以外に義とされる道はないことをさらに明確にしていきます。教会は「律法に対して死んだ」者なのですと語っています。(ローマ7:4,6参照)律法をなくすことはできません。でも人間の法が死んでしまえば解放されます。律法は「人を生きている間だけ支配するもの」(ローマ7:1)ですから関係が切れます。人は「キリストの体によって」(ローマ7:4)死ぬことができるのです。「キリストの体」はイエス・キリストの十字架の死のことで、それと合体することによってです。イエスと共に死んだならイエスと共に復活し、イエスが持っておられる新しいいのちの中に生かされるのです。イエス・キリストとの結婚生活に入っていくと言い換えることができるものです。だから、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われないと言って律法を持ち出してきたら、それは重婚になってしまい、とんでもないことであるとパウロは諭しているのです。

 新しいいのちの中に、イエス・キリストとの結婚生活の中に生かされている人たちは「新しい霊によって仕えるように」(ローマ7:4)「神に対して実を結ぶようになる」(ローマ7:4)のです。その新しいいのちの中に生かされている人にとって律法は「裁く」ものではなく「恵み」になります。そこには神を愛し人を愛する生活が生まれていくからです。