「役割」ローマの信徒への手紙7章7-13節

 「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張する人たちが教会の中に現れました。(使徒言行録15:1-6参照)パウロはこの問題を協議しました。エルサレム会議と言われるものです。教会の中にこのようなもめごとが生じていた時代です。パウロはローマ教会へ書き送った手紙で、神が罪人である人間を救う救いのご計画の中における律法の役割を説き明かします。

 律法によって神は神の民に御思いを伝えました。神の民であるユダヤ人たちは、律法によって神の御心を知ることができました。旧約聖書の出エジプト記に登場するモーセを通じて神から与えられた律法に従うことによって民は神の祝福を受けることができるのです。(申命記4:1-14参照)

 律法は神が神の民にお与えになったものですから、「聖なるものであり・・・正しいもの、善いもの」(ローマ7:12)なのです。そしてそれは「霊的なのもの」(ローマ7:14)で、神の民を「命に導く」(ローマ7:10)ものであったのです。その律法は神の民に罪を自覚させるものでもありました。(ローマ3:19-20参照)「律法によらなければ、私は罪を知らなかった」(ローマ7:7)。これはパウロの告白です。彼の体験です。「貪るな」との律法によって貪る自分を知ったのです。自覚したのです。「貪るな」と言われなければ、貪っても誰も悪いことだと思わないでしょう。律法の光に照らされて「いけないことをしている、悪いことをしてしまった」と自覚するのです。そして、ますます自分がどんなに罪深い者であるかを明らかにされていくのです。「私は自分のしていることが分かりません。自分が望んでいることを行わず、かえって憎んでいることをしているからです・・・善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています・・・私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:15-24)。罪に苦しむパウロの叫びです。してはいけないことが分かっていてもやってしまうのです。律法は律法に従って生きる力、歩む力を与えることができません。自覚させるのが律法です。これが神が神の民にお与えになった律法の役割なのです。このことはとても大切なことです。律法はわたしたちに罪を自覚させ、その罪から救ってくださるイエス・キリストへ向かわせるものなのです。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙で、「律法は、私たちをキリストへ導く養育係」(ガラテヤ3:24)だと言っています。「律法は神の約束に反するのでしょうか。決してそうではない。もしも与えられた律法が人を生かすことのできるものであったなら、実際に律法によって義が実現したことでしょう。しかし、聖書はすべてものを罪の下に閉じ込めました。約束がイエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです。真実が現れる前は、私たちは律法の下で監視され、閉じ込められていました。やがて真実が啓示されるためです」(ガラテヤ3:21-23)。イエス・キリストを信じる信仰によって人を救う、義とする道を、神は備えておられたのです。イエスは律法を守って生活をし、罪を犯しませんでした。そのイエスが罪深い人間の罪を背負って十字架で死んでくださったのです。どんなに罪深い者であるかを律法によって知らされ、罪に苦しんだパウロは、罪深い自分のために死んでくださったイエスによって救われることを知り、受け入れたのです。イエス・キリストによる救いを体験したのです。救いを体験したパウロの告白です。「死に定められたこの体から誰が救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」(ローマ7:24)。パウロの喜びのことばです。これは「私たち」の体験でもあるでしょう。