人は信仰によって義(救われる)とされます。義とされた人は「内に宿って」いる「神の霊(聖霊)」によって神の子とされます。(ローマ8:9参照)神の霊、すなわち聖霊は「子としてくださる霊」なのです。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです」(ローマ8:15)。
パウロは聖霊とは「子としてくださる霊」だと語っています。信じて救われた人を聖霊が神の子にしてくださるのです。聖霊が罪人であったわたしたちを神の子にしてくださるのです。信じた人自身が「神の子になった」と勝手に言えるものではないのです。そして、「子としてくださる霊」が信じる人の内に「神の子であることを」証してくださるのです。(ローマ8:16参照)ですから信じて救われた人は誰かに教えてもらわなくても、自分が神の子であることが分かるのです。確信することができるのです。これ以外に神の子が神の子であると確信を持ち、そのように自覚して歩む道はありません。パウロは「この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます」(ローマ8:17)と語っています。
神の子どもだから神に向かって「アッバ、父よ」と呼び掛けるのです。(ローマ8:15参照)「アッバ」はアラム語です。「父」という意味です。父親に向かってその子どもが「アッバ」と呼び掛けるように、神の子とされた人は神を「アッバ」と呼ぶ関係が神との間に生まれるのです。ですから神の子どもたちは、祈りの時に「アッバ」(お父さん)と神を呼び、神と語り合うのでしょう。それが神の子どもたちのお祈りなのです。神の子であるイエスのお祈りもそうでした。苦しみ悩み始められたイエスが地にひれ伏してこう祈られました。「アッバ、父よ、あなたはなんでもおできになります。この杯を私から取りのけてください」(マルコ福音書14:32-36参照)
神の子どもは「神の霊に導かれ」て生活します。「導く」のではなく、「導かれる」のです。「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです」(ローマ8:14)。神の霊、すなわち聖霊に導かれて生活するという歩みをパウロは12節で語っています。「きょうだいたち、私たちは、肉に従って生きる義務を、肉に対して負ってはいません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます」(ローマ8:12)。自分中心の生活ではなく、神中心の生活をするということです。そのように生きれるようにされたのだから、そうしなさいとパウロは語っているのです。そのような生活の中では「体の行いを殺す」こともあります。「体の行い」とは神のいない自分中心の事柄です。パウロがアジア州で伝道しようとした時「聖霊に禁じられ」、マケドニア人が助けを懇願する幻を見た時、パウロは神が招いておられるのだと確信しマケドニアに渡って行くのです。(使徒言行録16:6-10参照)パウロは「御霊に感じて」エルサレムに上る決心をします。(使徒言行録19:21口語訳参照)ところが、教会の人たちはあまりにも危険なので止めるのです。パウロのことを思って言っている教会の人たちの説得を、パウロは退けてしまうのです。「泣いたり、私の心を挫いたり、一体これはどういうことですか。私は、イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか、死ぬことさえ覚悟しているのです」(使徒言行録21:13)。パウロは聖霊に従ってエルサレムへ出掛けて行きました。「体の行いを殺す」というひとつの例と言えるでしょう。
神の子どもはキリストと苦難を共にし、同時にキリストと共に相続人となるのです。「子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共に栄光をも受けるからです」(ローマ8:17)。神の財産をキリストと相続するのが神の子ども、何とすばらしい祝福でしょう。