「うめき」ローマの信徒への手紙8章18-27節

 この手紙の8章18節から、呻き、呻き、呻きと、「うめき」ということばが繰返しでてきます。今朝はそのことばに注目します。題をそのまま「うめき」にしました。被造物が呻き、神の子が呻き、そして聖霊が呻いているとは驚きです。呻きとは苦しみの極致の表現と言えるでしょう。わたしたちの苦悩のことばにならないことばです。

 「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(ローマ8:22)「私たちは知っています」とパウロは語っています。パウロは被造物の「うめき」を知っていました。わたしたちはどうでしょう。被造物がうめいていることを知っている人がどれくらいいるのでしょう。

 自然界は神によって創造されました。地は草木を生えさせ、海の魚、空の鳥、動物、家畜が創造されました。創造者である神はそれらを見て「良しとされました」。(創世記1章参照)しかし、人間の罪によって自然界は汚染されてしまいました。「人間の陥罪のゆえに、堕落性は禽獣(きんじゅう)にまでおよんだ」と書かれた簡潔な説明を忘れることができません。自然界は「滅び」に向かっているのです。だからうめいているのです。「それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望」(ローマ8:21)をもって、「被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ8:22)からなのです。

 イエスの十字架によって救いは実現しました。やがてイエスが再びおいでになった時、新しい天と新しい地が創造されます。その時を見せられたイザヤの証言です。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み小さな子どもがそれを導く・・・水が海を覆うように主を知ることが地を満たすからである」(イザヤ11:6-9)。「見よ、わたしは万物を新しくする」(黙示録21:5)とおっしゃった主なる神の新創造の時を、自然界は待望して「産みの苦しみ」をしているのです。イエス・キリストによる救いは深く、大きなものなのです。

 神の子どもたちもうめいています。「霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます」(ローマ8:23)神の子は「体の贖われることを」待ち望んでうめいているのです。神の子どもたちは聖霊によって「神の子」にされました。神の子は聖霊をうちに住まわせ、聖霊に導かれて生活します。その聖霊は神の国をつぐことの保証で(エフェソ1:14参照)聖霊をいただいている神の子は、やがてイエス・キリストと同じ死なないからだに変えられます。永遠のいのちの具現です。(ローマ8:11参照)でも、今は「主から離れています。パウロは告白しています。「それで・・・願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています」(コリントⅡ5:8)。ここにうめきが生じるのです。神の救いの完成を待望しているからです。救いの完成を待望しつつうめきながら負うべき十字架を負って神に仕えているのが神の子なのです。

 神の子のうちに住んでおられる聖霊もうめいています。「霊自らが、言葉に表わせない呻きをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)。聖霊は弱いわたしたちを祈りをもって助けてくださるお方です。「言葉に表わせない呻きをもって執り成してくださる」のですから、これ以上の助けはないでしょう。「執り成してくださる」、それはわたしたちの弱さを担いながらわたしたちを主なる神へ届けてくださるということです。わたしたちが祈りのことばを間違えても、的はずれであっても、ことばがでてこない時であったとしても、聖霊は「呻きをもって執り成してくださる」と言うのです。この執り成してくださっている聖霊を頼って祈りつつ、イエス・キリストによる救いの完成を待望しながら歩んでいきましょう。