この箇所を読まれた或る方が、「イザヤ書の40章の終りの数節を連想する」、と言われました。「あなたは知らないのか 聞いたことはないのか。主は永遠の神 地の果てまで創造された方。疲れることなく 弱ることなく その英知は究め難い。疲れた者に力を与え 勢いのない者に 強さを加えられる・・・走っても弱ることがなく 歩いても疲れることはない」(イザヤ40:28-31参照)。神の子どもにとって神はそういうお方です。8章31節から39節は神の子どもたちの「凱歌」と言えるでしょう。「私たちは、私たちを愛してくださった方によって勝って余りあります」(ローマ8:37)とパウロは記しています。さらに神の子どもたちには、ステパノのように天が開けて、「執り成してくださる」主イエス・キリストが見えているのです。(使徒言行録7:54-60参照)ここには主なる神の大きな恵みが述べられていると言えるでしょう。
「誰が私たちに敵対できますか」(ローマ8:31)とパウロは問い掛けます。対抗することなどできません、とパウロは言いたいのです。なぜなら「神が味方」だからです。神が神の子の側についてくださるのです。神の子どもの生活に、敵と見える「事」や「物」や「出来事」や「人」や「自分自身」などなど、どんなに多く出没するでしょう。悩まされ苦しめられます。でも、神が神の子どもの味方なのです。味方である神は「御子さえ惜しまず死に渡された方」なのです。そのお方が「すべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか」、「賜るのです」、とパウロは語っているのです。難攻不落のエリコの城の前に立って途方に暮れていたヨシュアは神によって勝利を手にしたではありませんか。(ヨシュア記6章参照)神の子どもの味方である神が、神の子どもの側にいつも立ってくださって助けてくださるのです。
「誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」(ローマ8:33)、「訴えることはできません」、とパウロは言いたいのです。なぜなら、神は罪人を義とされるお方だからです。「人を義としてくださるのは神なのです」。神はイエス・キリストの十字架を罪人であるわたしたちの身代りとして受け取られたのです。完全な身代りとして受け入れたのです。イエスの十字架のゆえに信じ受け入れる者の罪を赦し、義(救い)としてくださったのです。神は人を救い、そして救い続け、救いを全うしてくださるお方なのです。誰が訴えようと、自分が自分を訴えようと、神は罪人を義とされるお方なのです。神の恵みに感謝せずにはおれません。
「誰が罪に定めることができましょう」(ローマ8:34)、「定めることなどできません」、とパウロは言いたいのです。なぜなら、イエスがすでに「死んだ」からです。罪人のために身代りとなって死んでくださったから罪に定められることはない、ということです。もう済んでいるのです。それだけではありません。「死んだ方」は「復活」し、「神の右におられ、私たちのために執り成して」くださっているのです。「ご自分を通して神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。この方は常に生きていて、彼らのために執り成しておられるからです」(ヘブライ7:24-25)。このお方が地上におられた時、ペトロのために祈られたのです。「私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ福音書22:31-34参照)。ペトロのために執り成しの祈りをされたお方なら、天上での祈りも確かです。この祈りあればこそ、躓いても立ち直れるのです。「兄弟たちを力づけて」やれるのです。
「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう」(ローマ8:35)、「できません」、とパウロは力説しています。なぜなら、「私たちを愛してくださる方」がおられるからです。「愛してくださる」とは「カルバリ山の十字架に付きて イエスは尊き血潮を流し 救いの道を開き給えり カルバリの十字架 わがためなり」(新聖歌112)と歌われてきた、その十字架に明示された愛です。それほどまでに愛してくださっているのです。地上での神の子たちは「日夜、死にさらされ屠られる羊」(ローマ8:36)のような生活です。悩み苦しみます。でも、愛してくださるお方、イエス・キリストによって勝てるのです。パウロは、どんなものも「神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:39)、と宣言します。
この確信を持って生活できるのが神の子どもたちなのです。