題の「悲しみと痛み」はパウロの悲しみと痛みのことです。「私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります」(ローマ9:2)。これはパウロが心の中に思っていることを隠さず述べたことばです。イエス・キリストの福音を拒むユダヤ人たちに体する悲しみと痛みです。パウロ自身に関する悲しみや痛みではありません。ユダヤ人パウロにとって同胞である彼らは、パウロの深い悲しみであり絶え間ない痛みなのです。
パウロはこれまでにどんなに大変な道を歩んできたことでしょう。苦難に会い、行き詰まることもあり、迫害されることも多々ありました。しかしパウロは、「私たちは私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります」(ローマ8:37)と証しました。そのパウロが「深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛み」があることを吐露しました。そして「私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています」と語っています。同胞が救われることを願っている、節に願っているパウロは、彼らが救われるためなら自分が犠牲になっても良いと考えていたようです。9章の冒頭で「私はキリストにあって真実を語り偽りは言いません。私の良心も聖霊によって証しているとおり」ですと語るパウロのことばからも、彼の同胞に対する熱い思いが伝わってきます。これが神の救いを知り、そのすばらしさを味わった神の子どもの姿なのだと言えるのではないでしょうか。こういう思いで祈りつつイエス・キリストの福音を伝えたから、福音は伝播していったのではないでしょうか。どのように伝道するのか、その方法を考えることも大事でしょうけれど、わたしたちの心のあり方が問題です。わたしたちの心の中を占めているものはなんでしょう。救われなければならない人が心の中から消えていないでしょうか。「悲しみと痛み」があるでしょうか。
旧約聖書にもパウロのような悲痛な叫びを上げた人がいました。「神の救い」に係ったモーセです。出エジプトしたイスラエルの人々が「子牛の鋳像を造り、これにひれ伏し、いけにえを献げ」(出エジプト32:8)てしまうのです。シナイ山に登ったモーセ(出エジプト19:1-3参照)が、神から「二枚の証しの板を授られた」(出エジプト31:18)時のことです。山に登ったモーセの帰りが遅かったので、「モーセがどうなったのか、分からないから」と言いだした民たちは、「エジプトの地から,導き上った」神を自分たちで造ってしまったのです。(出エジプト32:1-8参照)この民のためにモーセは執り成しをします。「ああ、この民は大きな罪を犯しました・・・今もし彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・。しかし、もしそれがかなわないなら、どうぞあなたが書き記された書から私を消し去ってください」(出エジプト32:31-32)。
モーセやパウロが仕えた神はどうだったでしょう。罪人である人間を救うために「その御子をさえ惜しまず死に渡された方」(ローマ8:32)ではありませんか。神は「私たちを愛し、私たちの罪のために宥めの献げものとして御子をお遣わしになりました」(Iヨハネ4:10)。わたしたちが神を愛したのではありません。神がわたしたちを愛してくださったのです。イエス・キリストの十字架によってこの神の愛を知り、造り変えられ、神の子とされました。神を愛する人となり、救われたことを感謝する者となりました。「御子さえ惜しまず死に渡された」神を知り、そのお方と交わるから、パウロやモーセのような歩みが生まれてくるのです。自分のことだけに終始する生き方ではなく、「肉による同胞のためなら、キリストから離されて、呪われた者となってもよい」という熱い思いをもって福音を伝え、祈っては伝える人になるのです。同胞に体する深い悲しみと絶え間ない痛みを抱えて福音を伝える人になるのです。それが神の子どもです。
そういう生活にこそ、神の祝福と恵みがあるのです。