「選びと約束」ローマの信徒への手紙9章6-16節

 神の子どもたちは主なる神の約束によって生まれました。その背後には神の選びがありました。それは神が主だからです。主権をもって行動される神、それが聖書が明示する神なのです。

 そもそも神の民(神の子)と言われたイスラエルの人たちは、どのようにして誕生したのでしょう。約束です。主なる神の約束によってです。アブラハムとの約束によって始まるのです。(創世記15章-18参照)その約束はイサク、そしてヤコブへと受け継がれていきます。ヤコブが主なる神の前に砕かれて「イスラエル(神の皇太子の意)」という新しい名前でよばれるようになるのです。ヤコブを先祖にしてイスラエルの民は出てきたのです。しかし、「イスラエルから出た者がすべてイスラエルなのではなく・・・肉による子どもが神の子どもではなく、約束の子どもが子孫に数えられるのです」(ローマ9:6-8)。ですから、民族的なものでもなく、血筋によるものでもないのです。「神の選びの計画が行いによってではなくお召しになる方によって進められ」(ローマ9:11-12)たのです。神は主です。主権者ですから、わたしたちがどうにかできる神ではないのです。それが神です。

 主なる神がアブラハム、イサク、ヤコブを選びました。主だからです。主なる神は「憐れみ」(ローマ9:16)の神でもあります。「私は憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ」(ローマ9:15)。主なる神は憐れみと慈しみをもって人間に臨んでくださるのです。この神を拒み退けてしまったのがエサウ(ローマ9:13)でありファラオ(ローマ9:17)です。彼らも「選ばれた者となる機会はあったのに自らそれを閉ざしてしまった人たちです。選ばれたイスラエルの民たちも何時しか神から心が離れてしまうのです。

 当時、イスラエルは従属国になってしまっていました。ローマ帝国の属国になっていたのです。人々は神に捨てられたと思っていたようです。しかし、神は捨てていないことを、パウロは神の民としての特権を列挙してそのことを明示するのです。「彼らはイスラエル人です。・・・肉によればキリストも彼らから出られたのです」(ローマ9:4-5)。ですからマタイは福音を語る時に、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1:1)と書き出したのです。イスラエルは選ばれた民でありながら、神に対する信仰を失ってしまったがために惨めな姿になってしまったのです。それでも主なる神は民の中に信仰によって生きる「残り者」(ローマ9:27)を残していてくださったのです。神はそういうお方なのです。ちなみに、イスラエルの人々の特権は、信仰によって神の子とされた教会の人たち、神の子どもたちに与えられている特権の内容でもあるのです。(I ペトロ2:9参照)なんと感謝なことでしょう。

 その選民イスラエルはイエス・キリストにつまずいてしまいました。(ヨハネ福音書1:9-12参照)行いによって義(救い)を手に入れようとしていたからです。「しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」(ローマ9:31)。しかし、主なる神を神とせず、義を追い求めることをせずに好き勝手なことをしていた異邦人が、イエス・キリストを信じ受け入れて「信仰による義を得ました」(ローマ9:30)。罪人として滅びに向っていた人たちが救われたことによって、神の栄光の富がどんなものであるかが明らかにされました。イスラエルの人であっても、異邦の民であっても、イエス・キリストの十字架は自分のためであったと信じるなら、だれでも救われるのです。(ローマ1:16参照)このことは主なる神がその主権によって行っていることなのです。「見よ、私はシオンにつまずきの石 妨げの岩を置く。これを信じる者は、恥を受けることがない」(ローマ9:13,イザヤ28:16,Iペトロ2:3-10参照)

 異邦の民が信じて救われたことの背後には、主なる神の寛容と忍耐があったことを見逃してはならないでしょうさらに異邦人が救われることによってイスラエルの人たちの目が開かれていくのです。そしてそこに寛容と忍耐をもって待っておられた主なる神のお姿をみることでしょう。「信じる者は恥を受けることがない」。やがて神の国の門を潜って中に入り、振り返って門を見たとき、そこに自分の名札がかけられているのをみいだすことでしょう。