「願いと祈り」ローマの信徒への手紙10章1-13節

 ローマの信徒への手紙を書いたパウロには願いがありました。ユダヤ人たちが自分のように救われてほしいということです。そして、それはパウロの祈りになっていったようです。「きょうだいたち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」(ローマ10:1)。心の「願い」あるから「祈り」が生まれるのです。祈りとはそういうものなのです。わたしたちの願いはどのようなものでしょう。どのような祈りを、わたしたちはしているでしょう。パウロと同じ神の救いの恵みに与って生かされている者として・・・。

 ユダヤ人たちはどのような歩みをしていたのでしょう。イエスのお話です。神殿である人が心の中で祈ったのです。「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者ではなく、また、この取税人のような者でないことを感謝します」(ルカ福音書8:11)。ユダヤ人達は熱心でした。厳しくしていました。しかし、彼らは「偽善者」であり「ものの見えない」人たちだと、イエスはおっしゃいました。(マタイ福音書23:13-33参照)パウロはユダヤ人について、彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、と語りました。持っている律法に従い、それを守ることにユダヤの人たちは必死でした。そういうことが「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」(ルカ福音書18:1)にしてしまったのでしょう。パウロは記しています。「私は彼らが神に対して熱心であることを証しします」(ローマ10:2)。でも。「その熱心さは正しい知識に基づくものではありません」。明言しています。

 「正しい知識」ということばは、普通は神やイエス・キリストに用いられるものです。神が持っておられる、イエス・キリストが持っておられる知識です。人の頭脳から出てくる知識ではないのです。律法に厳格な歩みをしているようでも、神が御覧になれば御心を痛めるものばかり、それだけでなく、律法が指し示すイエス・キリストを拒んでしまう人たちでした。律法時代の最後の預言者と言われたバプテスマのヨハネの証言、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ福音書1:29)に耳を傾けなかったのです。ユダヤ人たちは神から離れ、自分が持っている知識によって歩んでいたのです。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない」(ヨハネ福音書5:39)とイエスは誤りを指摘されました。

 律法を守ることによって人は義とされません。だから主なる神はイエスを世に遣わされたのです。律法の時代を終わらせるためです。「キリストは・・・律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです」(ローマ10:4)。イエスが律法を十字架において成就してくださったからなのです。ですから、人は小羊を携えて祭司のもとへ行かなくてもよいのです。このイエスに出合ったパウロは、「正しい知識」(ローマ10:2)に基いた生活をするようになったのです。イエス、そして神との深い結び付きによって「正しい知識」を得たのです。だから、パウロは「信仰の言葉」(ローマ10:8)を宣べ伝えるのです。

 「信仰の言葉」は「イエス・キリストの福音」と言い換えることができるでしょう。福音が伝えられると、それを聞いた人の心の中に信仰が呼び起こされます。イエスを受け入れ、従う心を呼び覚まします。それが信仰の言葉という意味です。ですから人は「口で・・・告白し・・・心で信じるなら・・・救われる」(ローマ10:9-10)のです。口先のことではないのです。告白です。口と心とが一つなのです。心で信じたことを口で告白するのです。「主を信じる者は、誰も恥を受けることがない」(ローマ10:11)のです。ユダヤ人も異邦人もないのです。「主の名を求める者は皆、救われるのです」(ローマ10:13)。これが神の御心なのです。

 聖書を読んでいながら、ユダヤ人は自分の考えに固執して正しい知識を得られませんでした。聖書が言っていることを聴き取ることができませんでした。目が開かれたパウロは祈らずにおられなかったのです。彼らが救われるのが彼の願いでしたから。わたしたちは聖書を読み、みことばが出合わせてくださるお方と深く結びついて、パウロのように「願い」、そして「祈る」人になりましょう。